例年以上に賛否両論が噴出している今年の大河ドラマ。以前も述べたように私は『全人類が否定しても自分一人が楽しめれば、その作品には推す意味がある』と『世界中が絶賛しようとも、俺がくだらないと思う作品はクズだ』という価値観は一個人の中で並立し得ると考えているので、他人が何を言おうが好きな人は推せばいいし、嫌いな人はボロクソに貶せばいいと思いますが、今年の毀誉褒貶の激しさは非常に興味深い現象であるのも確かです。
一つには迷走から立ち直ろうと足掻いてきた近年の大河ドラマが『こんな感じでどうでしょう?』と慎重に視聴者へ提示してきたモノを『どや? こういうのが好きなんやろ?』と平然と打ち出してくるふてぶてしさが敬遠されているのかなぁ。コメディを基調としたストーリー、紫禁城風清須城やThe・NINJA軍団や髷を結わない主要人物などの見栄えとインパクトに特化した美術装束、物語の辻褄に合わせた歴史の時系列の改変、或いは逆に史実のエグさをそのまま叩きつける衝撃的展開、ほぼほぼ現代語と変わらない台詞と成長著しい登場人物……こうした要素は従来の大河ドラマでも見られましたが、それらは制作陣の『他はちゃんとやるから、これくらいの冒険は許してね』という姿勢と、視聴者の『ストーリーをキチンとやってくれたら、多少のお遊びは目を瞑るよ』という暗黙の了解があったように思います。
その点、今年の大河ドラマはそうした要素を『先例あるやん?』と堂々とやらかしている印象を受けるのよね。しかも、一つ二つではなく、全部まとめて。視聴者的には『そうした欠点も含めて作品を愛している』とはいえ、決して欠点自体が好きな訳ではないのに、本作は欠点そのものを『最近の大河視聴者ってこういうのに弱いんでしょ?』みたいにドヤ顔で出されるのがイラッと来るんじゃあないかなぁ。
あと、現時点での『どうする家康』は全能型主人公の否定&主人公の責任の所在を明確にするという所謂スィーツ大河からの脱却という点では或いは『鎌倉殿』を凌ぐ作風と思っていますが、逆に言うと『それさえキチンとやっておけば、それ以外はやりたい放題』という開き直りを感じ取ってしまうのよね。まぁ、私自身がアンチスィーツ路線を望んできた人間なので、そこは文句を言いにくいところではありますが、スィーツ路線からの脱却を目指した近年の大河ドラマが必死こいて新しい道路を開拓した重機とすると、今年の大河ドラマは舗装された道路を爆走する最新モデルのスポーツカーという印象。勿論、先人たちが道を切り開いたのはそこに新しいものを通すためですから、全然間違ったことはしていないのですが、それでもモニョっとした思いがあるという方の気持ちも理解出来ます。特に本作が叩かれる最大の理由と思しき『演出やヴィジュアル』については、それをやらなくても全体のクオリティに影響がなさそうなんですよね。フツーのことをフツーにやってくれれば何の文句も出ない所に敢えて波風を立てている感が否めない訳で、挑戦的というか、非常に挑発的な作品という印象を受けています。
ただ、繰り返すようにアンチスィーツ路線という近年の大河クラスタが最も待ち望んでいた作風が堅持されている以上、ブツクサと文句を言いながらもキッチリ楽しんでしまう視聴者が多いのも頷ける話。実際、私も『フフッ』とか『なんでやねん』といいつつ、毎週毎週、
と本作を視聴しているばかりか、遂に録画分をブルーレイディスクに焼き始めるレベルでハマり込んでしまいました。二年連続で大河ドラマを円盤に焼いたことなんて一度もねーぞ。長らく続いた大河迷走期もひと先ずはトンネルを脱したと思いたい。ちなみに『鎌倉殿』は前のめり&半分膝を立てて食い入るように見ていたのに対して『どうする家康』はローマ人信玄宜しくどっかりと腰を下ろして踏ん反り返っての視聴スタイル。これは善い悪いではなく、双方の作風の違い&視聴側の思い入れの差というものでしょう。
前置きが長くなり過ぎたので、本編の感想は短め&先週と今週分をまとめていきます。
前回で一応の終結を見た『どうする家康』の三河一向一揆編。三話も使って大丈夫なのかという危惧もありましたが、終わってみると『いだてん』のロス五輪編と同じく、このくらいの尺は必要だったと納得の内容でした。一揆の収束に至る過程の描写不足と、今川領を侵略しようとしている信玄が、その後背を扼するのに使える家康の弱体化を図るかという疑問は拭えないものの、家康視点の一向一揆の物語としては充分に及第点。
『三河は家族』とのスローガンを掲げながら、ちょっとノッブに勝手気儘に鷹狩をされたうえ、謀叛人の捕縛という己の不手際を不条理な形で突きつけられたせいでイライラしていたところに、自分の領土内で自分のいうことを聞かず、慣例で税を納めない連中が自分の嫁にちょっかいをかけられたのに腹を立てて、お灸を据えてやると思ったら自分が手痛い火傷を負うという心情的にも政治的にもスムーズな流れに加えて、一度は一揆側に回った家臣の生命を犠牲にした献身と死に際の言葉が、逆に家臣たちへの疑心暗鬼を生む皮肉な展開、そして、それを踏まえた鳥居忠吉の『主君には家臣を信じて自分が死ぬか、自分を信じて家臣を殺すかの二択しかない』という諫言で目を覚ます……というか、開き直ることで一揆側に奔ろうとしていた酒井&石川両巨頭を繋ぎとめる(逆にいうと家康本人が気づいていないだけでマジでヤバかった)のが、キチンと一本のストーリーとして繋がっていました。ようブレずに描き切ったわ。
特に本多正信のキャラクターの掘り下げと、寺を更地に戻す逸話を彼の最後の御奉公として言上させる流れは鳥肌もの。本多正信直々に家康を狙撃させる必然性があるのかという意見を見ましたが、あれは正信が家康を殺せる男であると箔をつけることで、物語終盤でのトメクレに相応しいポジショニングをする狙いがあったと思われます。ストーリー的な必然性よりもキャラクターのランキングの問題やね。そして、三河一向一揆の結末として知られる、
寺は元通り(の更地)に戻す
という超有名な逸話を本多正信の最後(当時)の御奉公として描いたのは畏れ入りました。現時点ではまだまだ青臭さと小便臭さが拭えない白兎家康が、斯くも悪辣な詭弁を如何に思いつくのかと興味津々でしたが、確かに本多正信なら考えつきそう。しかし、最も重要なのは苦渋の決断とはいえ家康は最初から寺を潰すと決めていたことを先に描いていたこと。正信はその方策を示したに過ぎない。主君としての家康の決断と責任の所在を明確にしている。ヘタな大河ドラマでは『家康が知らない間に家臣が気を利かせてやってくれました』みたいな展開にするところでしょう。更に『三河一向一揆は返って家臣団の結束を強めた』という後世の通説に対しても、家康本人の口から『綺麗ごとにしてはいかん』と反省の弁を語らせることで、結果論で語られがちな歴史に対する公正な視点を担保していました。実は抹香臭くて説教臭いことに定評がある滝田版『徳川家康』では、三河一向一揆は数少ないコメディパートが挿入されていた(家康の姿を見た一向宗側の元家臣たちが慌てて逃げだす)ことを思うと、ある意味で滝田版『徳川家康』を越えたと言えなくもないと思います。思えない?
そして、三河一向一揆の苦い結末から一転、ほぼほぼコメディ回となった今週の『どうする家康』。この温度差は『新選組!』の『友の死』からの『寺田屋大騒動』に匹敵するように思います。思えない? まぁ、信玄の今川領侵攻とお田鶴殿の悲劇の前フリがあったとはいえ、箸休めのコメディと今後はあまり触れないようにするための側室アリバイ回としてはなかなか面白かったですが、先述のように三河一向一揆で三話も消費したことを考えると全体の尺は大丈夫かと思わないでもありません。ただ、側室の選出は男の趣味ではなく、正室や奥向きが主導するという近年の研究を踏まえたうえで、瀬名殿の表に出さないベタな嫉妬、更に現在の価値観との差異をコメディに仕上げた手腕は御見事でした。単発のコメディ回としては出色の内容。特に、
於大「そなたがもうおなごとして、しまいじゃということじゃ。だってそうじゃろう? 子を産むのは妻の務め」
と現代社会のハラスメント対策をメリケンサックで殴打する於大さんが最高に草。言い方ァ! オカジュンと並んでブッチぎりに本作のヤベー奴リストのツートップを張るのが主人公の母親とか、色々と頭がおかしくなりそう。瀬名の口から『家康は耳が弱い&ヨシヨシプレイが好き』と息子の性感帯&性癖を聴いて吐きそうになるところで、辛うじて人間らしさが垣間見えたといえるでしょう。ツイッターで実況中に『耳だけでイッてしまうシーン・ハリな家康はバイノーラルもののエロDVD好きそうだよね』とか呟いていたら、相互フォロワーさんに『信長に開発されたのでは?』と言われて、
この画像がそうとしか見えなくなってしまいました。信長と白兎の意味深な関係といい、西郡局の百合カムアウトといい、多様性に配慮した描写で於大さんのハラスメント発言とのバランスを取ろうとしているのかも知れません。実際、西郡局が百合属性であったか否かは不明ですが、子が生めると判った女と次々と【アーン♪】することに定評がある家康との間に、督姫一人しか子が授からなかったことからの逆算設定なのでしょうね。でも、そこまでして入れる必要のある設定かといわれると疑問。こういうところも冒頭で触れた挑発的な作劇として議論が分かれる要素と思われます。