先日の日記ではネタとはいえ、不安要素のほうが多いかなぁと思っていた荒川弘先生による『アルスラーン戦記』のコミカライズ。偶々、近所のコンビニに掲載誌が並んでいたので読んでみました。
いかん。面白かった。
第1話の内容は完全オリジナルでしたが、それでも、流石は荒川センセ。物語の主題となるべき要素を全て描ききっていました。余程、原作が好きか、或いはコミカライズに際して充分に読み込んだのか。画の印象からすると前者:後者の割合は3:7くらいに思えました。『RAIDEN-18』のようなはっちゃけ感は抑え目でしたのでね。まぁ、原作つきですので、勝手気儘にはできないでしょうが、それでも、完全オリジナルの内容にしては、楽しんで描いたというよりも、きちんと勉強して描いた感のほうが強かったです。
さて、肝心の物語の主題となるべき要素ですが、大雑把に分類すると、
1.奴隷解放
2.狂信の害
3.王の条件
のです。少なくとも、原作の第一部終了までは、この3つが物語の主軸といってよいでしょう。そして、繰り返すようですが、完全オリジナルの内容を執ったにも拘わらず、コミカライズ版では全てに触れていました。
まず、奴隷解放ですが、現時点でのパルスでは奴隷制度が当然のものとして受け入れられています。些か驚いたのは、主人公のアルスラーンでさえも、奴隷制度に何の疑問も抱いていません。
アルスラーン「財を沢山持つ者は奴隷も沢山持つことができる。奴隷の多さは、この国が豊かな証拠だ。大人しく奴隷になれば食べるには困らぬぞ」
アルスラーン「素直に奴隷になっておれば命を落とさなかったものを……なぜなのだ……私には解らぬよ、ダリューン」
これ、台詞を抜き書きするととんでもない悪党のようですが、別にアルスラーンは奴隷をコキ使ってやるとか、奴隷売買で金儲けをしれやるとか考えているのではありません。自分が自由を奪われて金銭で売買されるようになったらどう思うかという想像力が欠如しているだけなんです。でも、その想像力の欠如こそが奴隷制度の最大の味方であることは原作でも描かれている通りです。ついでにいうと原作のアルスラーンは今回の三年後の設定とはいえ、結構簡単に奴隷解放という理想に辿り着いちゃうんですよ。主な原因は泣く子も笑うパルスの宮廷画家に色々と吹き込まれた所為ですが、そこに至る過程がアルスラーン個人の生来の美点や資質に帰されていた面があった。その点、今回のコミカライズではアルスラーンが奴隷制度に『Why?』という感情を抱く契機がきちんと描いていました。それも、必ずしも奴隷制度に対する否定の意志ではないのが凄い。荒川センセは『ハガレン』でも見せてくれたように少年の成長を描くのが巧い人ですので(逆に田中センセは個々のキャラを冒頭からガッチリと決めるのが巧い)、この先もアルスラーンの成長物語が期待できるんじゃないかと思います。
次に狂信の害。事実上、アルスラーン戦記の第一部はこれがメインになるといっても過言じゃありません。ただし、原作では構成の都合上、初っ端からルシタニア人の狂信っぷりが大暴走しているので、そのまま描くとルシタニア人も元々は素朴な人間であることがコミカライズ版の読者には伝わりにくい。そこで、アルスラーンを人質に逃げるルシタニアの少年兵を通して『我も人、彼も人』ということを読者に刷り込んでいる。そのうえ、
「我らがイアルダボード神は人を平等に扱う! だが、貴様らはどうだ?人の下に人を置く、あの奴隷制度はなんだ? イアルダボード神はそのようなことは許さない! 人は皆、平等だ!」
と、恐らくは狂信化する前のイアルダボード神の教義で、パルスやアルスラーンに対する正論に近い批判を行わせています。これは狂信は自分が絶対正義と思った時に発生するという原作の主張を意外な角度から表現した構図といえるでしょう。まぁ、それに続く、
「よって、我らが神の教えに従わぬ貴様ら異教徒は差別し、殺してもいい!」ドヤァッ
という台詞にはアルスラーンに言ってることが支離滅裂だと突っ込ませていますが、それも心の中でのみなんですね。口にはさせていない。現時点でのアルスラーンは少年兵の主張に明快な理論で反駁できないんです。これが3つ目の主題となる王の条件にもかかってきます。
ハッキリいって、現時点でのアルスラーンは原作よりも遥かに未熟で頼りなく、ウジウジした存在です。世間が狭い。知識に乏しい。剣技もダメダメで、一部の平民からもアホ王子と陰口を叩かれています。王の器としてはまだまだ矮さいといわざるを得ません。しかし、そんな中にも王としての片鱗を窺わせる描写はきちんと描かれていました。無闇な殺生を好まない気質。『守ってやらなきゃ』という気持ちにさせる為人。知らないことを知らないままで終わらせたくないという好奇心。それらは全て、のちの解放王アルスラーンの人格に繋がるものです。特に『護衛など必要ないアンドラゴラス』と『俺らが守ってやらなきゃしゃーないアルスラーン』というのは、如何にも田中センセが好む中国の通俗的な理想の君主像(劉備とか宋江とか三蔵法師とか)に通ずるものですので、ここを外さなかったのは非常に嬉しい。
このように原作の重要な要素を外さなかった荒川センセですが、コミカライズ版ならではの楽しみもキッチリと仕掛けてありました。ルシタニアの少年兵がアルスラーンを人質にあちこち逃げ回るという今回の構成。三段ブチ抜きの麒麟の長い頸とか、落下アクションとか、如何にも少年漫画チックな画や動きで読者を楽しませるのは勿論ですが、実は本質はそこではない。上記3つの要素を外さないのが目途であれば、別に派手な逃走劇でなくても成立するんです。じゃあ、何でドタバタ劇にしたのかといえば、恐らくは、
栄華を極めるエクバターナの姿
を第1話で描いておきたかったのだと思います。多少、先走りの内容になりますが、このあと、エクバターナはルシタニア軍の蹂躙を受けて、ボロボロにされます。しかし、上記のように原作では構成の都合上、ルシタニアの侵攻を受ける前のエクバターナの様子は描かれないままでした。これだと、エクバターナが陥落した時の衝撃が伝わりにくいんですよね。実際、原作を読んだ時のエクバターナに対する最初の印象は血腥い都というものでした。そこで、コミカライズ版では少年誌的な活劇に事寄せて、実はエクバターナの栄華を描いておき、それが見るも無残に蹂躙された時との落差を出したいのではないかと思います。画のインパクトが求められるコミカライズでは正しい選択ではないでしょうか。
まぁ、あんまり手放しに褒め過ぎるのもアレなんで、気になった点も幾つか。作中のダリューンの言動から察するにナルサスは既にダイラムに隠遁している様子ですが、第一次アトロパテネ会戦の三年前だとナルサスはギリギリ、宮仕え中じゃね? それとも行き違いになったのでしょうか。その辺はコミカライズオリジナルの設定なのかも知れません。
あと、荒川センセは画に感情がモロに出るタイプなんですが、今回出てきたキャラの中で筆がノっているなぁと感じたのはダリューンとクバードくらいに思えました。タハミーネも妖艶な美女という雰囲気じゃなかったしなぁ。主要登場人物よりもルシタニア少年兵に馬を盗まれた男とか、施政の人々のほうが生き生きしていたなぁ。まぁ、それも今回の主人公がサブタイ通りにエクバターナであることの証左かも知れませんが、キャラクター造型に一抹の不安を覚えたのも事実です。私が一番贔屓にしているラジェンドラ王子とかどーなるんでしょうか? 個人的にはラジェンドラ王子はシリアスじゃないマスタング(ただし、雨の日もそれなりに有能)という印象があるんで、もう、大佐にトーン貼って登場させてくれても全然OKだよ。
ともあれ、思わぬ出来のよさに勢いに任せた感想記事をUPしてしまった荒川版アルスラーン戦記。次回以降も感想を書くかは未定です。
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