まずは大河ドラマ『べらぼう』に関する一部報道から入りましょう。鬼でなくとも失笑を禁じ得ない内容なのは来年のことを言っているからだけではないと思います。
まぁ、色々と言いたいことはあるけど、取り敢えず、最初にハッキリさせておきたいのは、
俺が推している小芝風花の芸風は清純派じゃない(誉め言葉)
かな。最近の日本語ではハ●ピーセットのオマケで貰った特撮フィギュアを壊した母親にじゃかましいクソBBAと平手打ちを食らわせる&男に騙された経緯をラジオで赤裸々に語った夜に泥酔して他人の部屋に入り込んで住人に飛びつき腕ひしぎ逆十字固めを極めるヒロインを演じる女優を清純派と呼ぶのか。いや、清純派の役柄が多いのは認めるけど、私の中では『トクサツガガガ』や『波よ聞いてくれ』でのコメディエンヌのホープの印象が強いのよね。まぁ、その辺は個人の見解の相違として、最大のツッコミどころは、
「今のご時世に吉原の遊郭を舞台として描くことへのリスクを指摘する声もある( -`д-´)キリッ
の一文。蔦重の人生を描くのに遊郭がリスクになるとか……『砂の器』の映像化に際して本浦親子は大量殺人の罪から逃れるために放浪していることにしてしまうレベルの発想ですね。ちなみに『砂の器』の事件の一番の原因は被害者にあると思う。彼自身は本当に底抜けの善人で、過去も現在も何もかもが100%の善意から出ているのは間違いないけど、世の中には浮世の善意を見切らざるを得ないほどに社会に追い詰められた人間がいることを理解出来ず、自分の善意は相手にも必ず通じる&何もかもいい結果になると思い込んでしまうタイプなんやろうなぁ。ともあれ、創作の根幹に関わる設定と現実社会の区別もつかない連中のゴキゲンを窺わねば、創作も儘ならないとはセチガライ世の中になったものですが、普段は萌えキャラや水着撮影会や他人の夫婦関係にドーダコーダとクレームを入れる界隈が今年の大河ドラマのマタハラやロッカールームトークや一条帝と定子の重い御使命(意味深)に対して放火の気配すら見せないのも、それはそれで興味深い現象だと思います。
さて、下種の勘繰りはこの辺にして先週&今週の『光る君へ』の寸感に入りましょう。
一条天皇「官人の綱紀粛正、高貴な者の従者たちの乱暴を禁ずる旨、厳命したばかりだというのに、こともあろうに院に矢を放ち、死者まで出すとは許しがたし!」
花山院に矢を放った伊周の暴挙に激おこ一条帝。固有名詞を変えたら光厳院に矢を射かけた土岐頼遠に対する腹黒い弟の直義の台詞と言われても違和感ないと思います。思えない? 院と行き会った際、面白半分に矢を射かけることで中関白家の意識も変わってゆく! 尚、左遷される模様。あの世への配流でないだけマシだね。
ただ、先週今週と長徳の変に随分な尺を費やして描いた割に、変の詳細や推移が伝わりにくかった。史実の伊周が出家して戻ってきた逸話を出家したした詐欺にアレンジしたのは結構好きですけど、それ以外の朝廷に燻る中関白家への不満、事件の概要、それを受けた反伊周陣営の動向、何れもピンと来なかったなぁ。全体的に登場人物の動機づけが弱かったように思います。道隆にせよ、伊周にせよ、多少のオイタや失政はあったにせよ、廟堂から排除されるに足るほどのヘイトを稼いだ訳でもなく、彼らに取って代わる側の三郎の行動原理も示されないままなので、誰が如何なる理由で動いているのかが判りにくかった。まひろに『自分は何もしなかったけど、事態が好転するように努力もしなかった』と述べていたように、道長は善きことも悪しきこともしないままに棚ボタで伊周の後釜に座った。それは一つの歴史の解釈かも知れませんが、登場人物の動機が判らないままで過程と結果のみを見せられてもドラマとしての面白味に欠ける。正直、そろそろ三郎には政治劇パートを主導して貰わなければ困る頃合いなのに、いつまでも『やれやれ系』では視聴者もドラマの何処に注目していいか困るんだよなぁ。
諸々の都合で三郎が主導出来ないとしたら、詮子さんをもっと前面に出して、その喜怒哀楽の感情や定子を陥れる策謀を具体的に主導するべきですけど、実際には自作自演の呪詛騒動という画面映えしないうえ、その動機もイマイチ視聴者には伝わりにくかったなぁ。いや、動機は中関白家と定子の追い落としというのは判るけど、何でここまで叔母と甥、嫁と姑の関係が拗れたのかが判然としとらんから傍目には、
息子と嫁の人目を憚らないおねショタイチャラブっぷりに嫉妬したママンの復讐
に見えてしまいました。
本作は平安劇、政治劇、恋愛劇、源氏物語オマージュ、クリエイターもの、大河ドラマ初心者向け作風等々、複数のテーマでバランスよく均等に構成されていて、ベタに強い大石脚本らしいといえなくもないけど、逆に言うと物語を牽引する要素やキャラクターが不在になりがちなのよね。序盤は兼家パッパの腹黒っぷりと道兼のゴールデンバウム王朝門閥貴族っぷりが話題を呼びましたが、この親子が示した死穢の概念も今では然程、ストーリーの根幹に関わることもなく、彼らの退場後はヒロインや三郎を含めて、全員が団栗の背比べのようになっており、
結果的に視聴者の印象に残るのがロバート秋山
になってしまっているのは否めない。いや、俺もロバート秋山の実資は近年でも屈指の当たりキャスティングだと喜んで見ていますけど、史実の役回り的にもドラマの配役的にも三郎よりも目立ってしまうのは、全体の構成に関わる問題ではないかと思うのよ。ストーリー面でも上記の主題全てを網羅しようとして全てが中途半端になってしまっているので、越前編突入を契機にテーマを絞り込んで欲しいところ。周明とかいうジェネリック直秀との交流よりも優先すべきことがあるんじゃあないかな。平安中期という大河ドラマ未踏の題材だからこそ、視聴者には一昨年の大泉のように『このキャラの動向やテーマを追いかけていれば大丈夫』と思えるポジションが必要だと思うのよね。少なくとも、ここ一カ月の『光る君へ』で一番印象に残ったのが、
オウム(CV:種崎敦美)
というのは種﨑さん推しのワイから見てもヤバイんじゃあないかと。あ、でも、目立った描写や露骨な感情表現はなくても倫子さん三郎の浮気相手特定するために徐々に外堀を埋めていくパートはダントツに面白いです。まぁ、まひろやききょうよりも倫子さんのほうが印象に残るのも問題ではあるのですが。