前回の記事で『全人類が否定しても貴方一人が楽しめれば、その作品には推す意味と価値がある』と随分とキャラに似合わず、気取ったことを書いてしまいました。それを自己否定するつもりは毛頭ありませんが、それと同程度に私の場合は、
山口ノボル「つまらねぇ……こんなつまらねぇ番組作って金貰ってるヤツがいるのか……犯罪だぞ。しかもタチの悪いコトに、こんなロクでもねぇ番組に限って視聴率が良かったりする。だがな……これだけは言っておく。たとえ数字が良くてもオレが認めなければそれはクズだ」
という視点で作品一般を鑑賞しているのも事実です。『どうする家康』への評価の話じゃないよ、念のため(少なくとも今のところは)。『全人類が否定しても自分一人が楽しめれば、その作品には推す意味がある』という思考と『世界中が絶賛しようとも、俺がくだらないと思う作品はクズ』という価値観は並立し得ます。だからこそ、批評の際には周囲に何を言われようとも好きと決めたらグイグイ推せばいい&作品への批判を自分への批判として受け止めなくていい&作品への批評は作品と作品の制作者に留めるべき&批評に対する批評の権利は万人に認められるべきということを改めて明言しておこうと思います。先週の内容と多分に被った前書きになりましたが、我ながらガラにもないことを書いた照れ隠しと受け止めて頂けると幸いです。世の中には自分が下らないと思った作品を支持する側も同罪と見做して『作品需要を反省しろ』と宣う方もおられますが、作品の人気やクオリティに関する責任はあくまでも作り手が負うべきでしょう。これは作品の受け手がどのような行動に奔ろうとも、それは受け手の責任であるのと同じ理屈ではないかと思います。
固い話はこの辺にして、今回の話題は2つ。
渡辺守綱「俺を誰だと思っとる? 渡辺守綱様だぞ!」
ジャイアン味が半端ない槍の半蔵。『おーれは半蔵♪ 足軽大将ー♪』とか歌い出しそう。ちなみに滝田版『徳川家康』の半蔵は星一徹の声優としても知られる加藤精三さんでした。昨年は超高速以仁王の乱(史実通り)で退場となった木村さんですが、今年は主人公よりも長生きするキャラクターなので、出番が多くなることを期待したいですね。
さて、都合3週ほど感想記事をサボッた『どうする家康』ですが、別に興味がないとか面白くないとかいうことでは全然なく、第4話を除いて概ね楽しんで鑑賞しています。やはり、第四話は三英傑+お市の方の欲張りセットで話の焦点が絞り切れなかったのが痛かったな。実際、翌週&翌々週の瀬名奪還作戦&続・瀬名奪還作戦は二話分の尺を費やしてじっくりと本多正信&服部半蔵のキャラ立て&瀬名の両親の覚悟と悲劇を描いたことでドラマとしてもエンタメとしても見応えのある内容になっていましたからね。ちなみに瀬名の父親は通説とは異なり、処断されずに生存しています。死なせたほうが話が盛りあがるからね、仕方ないね。でも、しれっとまた登場しそうでもあるよな。
そして、今回から三河一向一揆編がスタート。不輸不入の権などの歴史用語をベースに武家と宗教の不穏な関連性を踏まえつつ、随所にコメディパートを盛り込む本作の基本スタイルは堅持されていました。ナンパの最中に主君の母親&上司の女房とハチあわせしてしまった小平太&平八郎の気まずさといったら……流石の於大さんも『若い男サイコー!』とはならなかったか。ただ、変装した家康&瀬名たちがバッタリとハチ合わせするというシチュエーション自体は面白かったけれども、そうなる必要性があったかといわれるとビミョー。来週以降の展開に関わるのかも知れませんが、現時点では笑いを取ることが第一義になってしまった感がありました。いや、面白かったからいいけどね。
前書きに力を使い過ぎたので、ポイントは2つ。
松平家康「あの……鷹狩と伺いましたが、我が所領でなn
織田信長「鷹狩じゃ。獲物が沢山獲れたわ」
やや食い気味に返答するオカジュンノッブ。相手が話を終えるまで待てない時点でコミュニケーションスキルの欠如が疑われる案件ですが、そもそも、家康の質問の意図は『ウチのシマで勝手に鷹狩とか何さらしてけつかるんでございますか』であり、それに対して『鷹狩』と返答する時点で根本的に会話が成り立たない相手であると判ります。物理的恐怖と同レベルで併存する、コミュニケーションが取れない相手との会話を余儀なくされる精神的恐怖。今年の信長は隙を見せない二段構えのサイコパス設定ですね。
ただ、今回の信長の鷹狩は純粋な遊興に留まらず、家康に謀叛を起こそうとしていた諸勢力を(頼まれもしないのに勝手に)駆逐する目途と同時並行で、如何に自分の美濃攻めの背後を固めておきたいという戦略的狙いがあるとはいえ、基本的には家康を思いやってのことではあります。べ、別に白兎君を心配したんじゃないんだからねッ! 私の上洛の足枷にならないように手を打っただけなんだからねッ! とんだツンデレ&ヤンデレですね。方向性が違うだけで『麒麟がくる』の生首塩漬けノッブと大差ない遠回り過ぎる重い愛。後年の信康事件も同じように信長が勝手にしゃしゃり出てロクでもないことになりそうな予感。
一方、家康にとっては対等の同盟相手(笑)に勝手に領内に侵入されたうえ、自身の監視の目の届かなかった謀叛人を摘発されるという二重の屈辱。特に後者は己の手落ちを不条理な手段で解決される有難迷惑な分、余計に一国の主としてのプライドを傷つけられたことでしょう。後半の一向宗に対する今までの白兎とは思えない、やや高圧的な態度は自身のミスを嫌いな相手に指摘された者にありがちな心理的防衛反応に近いのかも知れません。外で叩かれた分、内に厳しく当たるのは人間あるあるですからね。ここの動機づけは巧かった。
空誓「政をしている連中が阿房だからじゃ。阿房に銭を貢いでも阿房は戦にしか使わん。死に金じゃ」
松平家康「戦をしたくてしている訳ではない……のだと存じます。国を守るため、民を守るため、少しでもよい暮らしをさせるために皆、生命懸けで……戦をしてはならぬのなら一体、どうすればよいのですか? 戦をせずに済むには一体どうしたらいいか教えて下され」
空誓「知らん。生きとる世界が違う。苦しみを与える側と……救う側じゃ」
あからさまに成長著しい空誓(19)と家康の対立シーン。主人公VS宗教家という難易度の高いバトル設定でしたが、なかなかに見応えがありました。家康は戦費がない&信長にヘコヘコさせられた腹いせの延長として徴税を思いつき、空誓は『君は民に苦しみを与える側で俺は救う側だから、お前のことなど知ったこっちゃない』と突き放す。実際、為政者が悪政を布けば布くほど、そこから物心共に逃れようとする民衆の支持を得た宗教は儲かる仕組みですから、空誓は『世の中の仕組みなんて知らん。むしろ、悪い為政者ほどウェルカム』というのが本音でしょう。そして、空誓の明け透けな開き直りにブチぎれて寺の米を徴発した夫を見た妻に、
瀬名「寺から取り上げた年貢で食う飯は旨いか?」
とチクリと批判させる。普通、異なる意見の対立を描く際にはお互いの正義と正義のぶつかり合いを描きたくなりますが、本作では双方のロクでもないところを衝突させるという展開でした。この底意地の悪いバランス感覚は近年の大河ドラマの中でも特筆に値すると思います。
ただ、空誓の説法は『センゴク』の本願寺顕如登場回の二番煎じといった内容で、評価はイマイチ。まぁ、同じ宗派なので、ある程度似通うのは仕方ないのかなぁ。それとも、あの話の枕は浄土真宗の説法の鉄板ネタなのかも知れません。あとは家康と空誓を結びつける千代の知己を得る件も些か弱い。如何にマツジュンに激似で見栄えがよいから贔屓したくなるとはいえ、ああもホイホイと取り次いでいたら空誓も身が保たないでしょう。尤も、千代=望月千代女と仮定するとハナから家康の正体を知っていて、三河にひと騒動起こそうと空誓に引き合わせた可能性もアリ。この辺は今後の千代の描写次第かな。
次の話題はこれ。
10年前に『描写が過激であると松江市教委が市内の小中学校に学校図書館での子どもの閲覧を制限し、貸し出しもやめるよう要請していた』と話題になった日本を代表するトラウマ漫画の『はだしのゲン』。その時も拙ブログで記事にした記憶があります。確か、
「『はだしのゲン』は『反戦漫画』という括りで学校の図書館に並べられるのが似あう漫画ではない。あれは原爆と日本社会に対する純粋な憎悪の感情をブチ撒けた怨念の書。如何に生きるためとはいえ、ゲンや隆太が窃盗や詐欺や殺人を犯しても全部ピカが悪いの一言で片づける論理性のなさとテンションの高さが魅力の、作者の被爆体験をリアルに綴った『原爆ドキュメント漫画』であり、戦後の混乱を過激に生きざるを得なかった少年少女たちの『任侠渡世漫画』であり、原爆を体験した作者のやり場のない怒りが何処に向かったかを忠実に描いた『ドキュメンタリー』である」
と絶賛した記憶があります。我ながら随分と過激な評価をしたものですね。
まぁ、前回は閲覧&貸出制限という割とガチ目な規制であったのに対して、今回は教材の差し替えということで、記事の見出しを目にした当初は『まぁ、贔屓目に見ても偏りのない価値観で描かれたとは言い難い作品だからなぁ。学校教育で用いるのは難しいと判断されたのかなぁ。残念だなぁ。社会科系で教材にするのが問題としたら、物語としての面白さを鑑みて国語系の教材として残して欲しいなぁ。本作はごんぎつねや羅生門や山月記に匹敵する日本人の国語教育に欠かせない基礎教養だよなぁ』など呑気していたのですよ。実際、あのレベルのパンチの効いた作品に触れる意義って大きいと思う。そこに『鎌倉殿』や『どうする家康』のエゲツナイ史実描写に触れた大河ビギナーのメンタルが曇る様子を見てほくそ笑む歴史フリークに似た心境がないと言ったら嘘になりますが、この件に関しては作者本人が子供が読んだらヘドを吐くような画をもっと描きたかった&本作を見て泣き喚いてくれた全ての子供たちにありがとう、君たちは原爆の本当の恐ろしさを知ったのだと初手からトラウマを植えつけることを前提にした作品であったと認めているのでセーフでしょう。セーフじゃない?
所謂『平和教育』の教材としても、先の大戦の記憶の継承の難しさを嘆くよりも現在進行形で起きている戦争をキチンと子供たちに教えることが重要ではないか……という『C・M・B』の立樹パイセンの金言もありますので、教材から外れることは残念であり、個人的には反対でしたが、公教育の公正さを担保する意味では受け入れざるを得ない……とか考えていたのですよ。
ところが、記事を読んでみたら、
『「はだしのゲン」はこれまで、小3と高1でいくつかの場面が引用されていた。小3では、主人公のゲンたちが戦時下の苦しい生活の中で、家族のために浪曲を歌って日銭を稼いだり、栄養不足の母親のために近所の家のコイを釣ったりする場面が使われていたが、有識者からは「浪曲はいまの児童にはなじまない」「コイを盗む描写は誤解を与える恐れがある」という指摘があったという』
何じゃ、その差し替え理由は? 現代の価値観に馴染まない? 誤解を与える恐れがある? アホか! アホか!! アホか!!! 大事なのは過去を描いた作品の善悪を現代的価値観で否定することじゃないだろ? 何故、ゲンたちが浪曲のバイトや鯉の窃盗やスジモン相手のドンパチをしなければならなくなったのか、その原因が誰に&何処にあったかを子供たちに考えさせるのが重要じゃないのか? その理由については作中でゲンがまず天【やんごとなき事情で伏せ字です】じゃと初手からチェックメイト宣言をしているけれども、作者の主張を読者一人一人がどう受け取るか、その思考を促すために『はだしのゲン』という作品を教材に用いたんじゃなかったのかい! 大体、現代の価値観に合わないとかいうたら、ごんぎつねも兵十の母親を死なすし、羅生門も婆さんの着物を剝ぎ取るし、山月記も虎と化した李徴が人を喰らうやんけ! 現代的価値観に馴染まない&誤解を与える恐れがあるという理由で『はだしのゲン』を外すんやったら、上記の三作品も同じように教材から外さんかい! このテの創作や歴史的事象を現代的価値観で断罪&否定する界隈の所為で、劇薬レベルの刺激と魅力に溢れる作品が教材から外されると思うと残念でなりません。
そういや『はだしのゲン』が教材から外される件に関して、様々な方面から強い反発の声があがっているようですが、内容が現代的価値観に馴染まない&読者に誤解を与える恐れがあるという今回の削除理由は表現規制派による漫画やアニメへのバッシングと同じロジックですからね。『はだしのゲン』を擁護する人は是非、他の漫画やアニメに対しても同じスタンスを守って欲しい。ついでに『はだしのゲン』のように戦争責任の所在を問う作品が現代では描けなくなったのは保守的な同調圧力が強まったからだなどと嘆く輩もおるようですが、それは表現規制派の圧力で少年誌にお〇ぱいを出しにくくなったのと同じロジックであると自覚して欲しいです。勿論、私は『はだしのゲン』も『少年誌のお〇ぱい』も平等に表現の自由として尊重します、念のため。実際、はだしのゲンにもお〇ぱい描写あるからね。