妙だな……三週間も更新を休んでいたのに……『鎌倉殿の13人』の総評が一文字たりとも進んでいないぞ……。
お休み前に『更新をサボッて総評執筆の時間を確保しようというセコい算段をしている訳ではない』と書きましたが、まさか馬鹿正直に前言を墨守する結果になるとは思いませんでした。ここ三週間はいい意味でも悪い意味でも色々と『こと』が多過ぎたうえ、体調面(主にメンタル由来)でも非常に不安定な時期が続いているため、今週も寸感メインで行こうと思います。それと暫くは今まで以上に更新が滞る可能性大。兎に角、年末は『鎌倉殿』総評に全ての時間と残されたスッカスカのスタミナを注ぎ込む予定なので、少なくとも下半期ベストは越年することになると思われます。予めご了承下さいませ。まぁ、下半期ベストは敢えて越年させることで毎年暫定候補として挙がっていた『岸辺露伴は動かない』を正式にノミネートすることが出来ると前向きに考えましょう。今年もアワビの密漁ならず。以前の予想通りに『ジャンケン小僧』と『ホットサマー・マーサ』が来たとはいえ『ホットサマー・マーサ』は露伴センセ(の藪箱法師)がファンの女の子を【禁則事項です】せる話なので、メインキャスト同士が交際中との報道があったことを思うと、撮影現場がギスギスするチョイスではないかとの不安がなくもありませんが、逆に考えるんだ。原作の露伴と京香ちゃんの関係自体がギスギスしているから問題ないと考えるんだ。流石は荒木センセ、ここまで見越して『ホットサマー・マーサ』を執筆したのか(違います)。そういや、最近は環境問題をアピールするためと称して芸術作品にスープやペンキをブチ撒けるエテ公が世界を騒がせているばかりか、そのエテ公の行動を理解出来ない日本人は意識が低いと宣う曲学阿世の徒まで現れる始末なので、来年は『ドリッピング画法』をやって欲しいですね。荒木センセ、マジ予言者過ぎるわ。
まずは大河ドラマの感想から。
合計3話分の感想記事をスッ飛ばした割に、その間の犠牲者が和田別当一人で済んでいる『鎌倉殿の13人』。てっきり今週で3人消えると思っていたのですが、まさかの次回に続く。いや、基本的に大河ドラマは最終回以外は『次回に続く』エンドなんですけれども、ここで来週まで引っ張るとは……@4話で小四郎の最期までやれんのか? これは超高速承久の乱になる予感がヒシヒシするぜ。まぁ、承久の乱は実際に超高速で終わっているから史実通りといえなくもありませんが、そこに至る過程や策謀は丁寧に描いて欲しいところです。
さて、上記のように総評執筆のためにネットを中心に様々な感想を読んでパクっ……じゃない、参考にしている今日この頃ですが、結構目にしたのが(作品への肯定にせよ否定にせよ)小四郎がただただ悪者にされているという御意見。私的は大河ドラマの主人公が堂々と悪いことをやってくれるだけで単純に嬉しいのですが、それって主人公を只管いい子いい子してきたスィーツ大河のネガポジじゃないかという趣旨の論調もあり、確かにそういう視点も成立するかもと頷かされたものです。
ただ、あくまでも個人的な見解ですが、小四郎は悪人だから悪いことをしている訳ではなく、一応の行動原理に即した悪行であると考えます。私が感想を休んでいた間から事例を挙げると、
この白髭危機一髪ともいうべき場面で、小四郎は和田別当の罪を『鎌倉殿に取り入ろうとしたこと』と定義しているのですね。勿論、直前の場面で実朝きゅんが空気も読まずに『義盛、お前に罪はない』と宣言してしまっているので、小四郎としては何としても謀叛以外の罪業をデッチあげなければならなかった事情もありましたが、そこで罪として挙げたのが『鎌倉殿に取り入ろうとしたこと』というのは案外、小四郎の潜在意識の発露ではないかと思うのです。元々、小四郎は実朝きゅんと和田別当の親交は温かい目で見守っていました。実朝きゅんが嫁や政治から逃避するためにやすらぎの里・和田別当に入り浸っていたことを批判しなかったのは、自身の政治に容喙させないために都合がよかったというのと同等に、個人的親交には寛容であったことの証左といえます。しかし、本人に全く悪気はないとはいえ、和田別当が実朝きゅんとの紐帯を盾に幕府の人事や行政に口を挟んだ途端、小四郎の態度は絶対零度の塩対応に変貌しました。如何なる事情であれ、将軍や御家人の個人的感情や親交を政治の意思決定に反映させてはならない、それを試みた者は見せしめのために処断されねばならないというのが小四郎のジャスティス。実際、彼は鎌倉殿の権限を恣意的に運用した実父・時政を政治的に葬ったうえ、周囲の懇願で渋々断念したものの、その生命をも奪おうとしました。小四郎は(少なくとも彼の主観においては)自身の欲得を政治に反映したことはなく、それに反した者は身内でも容赦なく断罪する姿勢を貫いています。
恐らく、本作の小四郎(≠史実の北条義時)が志向している鎌倉殿のあるべき姿とは多分に概念的な統治機構と思われます。御家人は勿論、鎌倉殿本人であろうとも権力の恣意的な運用を許さず、皆が組織の運営と存続のための最善手を粛々と遂行する。それが小四郎の目指す鎌倉殿なのでしょう。本作の小四郎が現代の法人という概念を知ったら『私が目指しているのはそれだ』と飛びついたのではないでしょうか。ただ、如何せん、鎌倉時代に法人という概念はなく、本作の小四郎にも自らのヴィジョンを言語化するスキルがないため、自身が定めたルールに背いた者を粛清することでしか他人に枠組みを示せないのでしょう。この辺は装鉄城さんが『小四郎はモデルケースのない政権の構築を余儀なくされている』と分析した通りであり、先例なき体制を指向する権力者の生みの苦しみと評してもよい。
今回、遂に小四郎が実朝きゅんと源仲章の排除に乗り出しましたが、実朝きゅんは兎も角、この段階まで腹の立つ顔の仲章を処断せずにいたのは両名が推し進める『親王による鎌倉殿』という新体制が、実は小四郎のヴィジョンと必ずしも相反さなかったからでしょう。本作の小四郎が考える鎌倉殿の在り方は謂わば鎌倉殿機関説に近く、在地の御家人と個人的なツテのない親王を将軍に頂くシステムは意外と小四郎の理想に即している。小四郎にはもう一つ『源氏も平家も追い払った坂東武者の世のてっぺんに北条が立つ』という宗時に託された理想がありますが、そちらはあくまでもプライベートな目標であり、公人としての小四郎のスタンスに合致する以上、両名を排すことが躊躇われたのだと思われます。ただし、それは親王が京の思惑と切り離されることが大前提であり、如何に在地の御家人との繋がりがなくても、朝廷の思惑を代弁する人物を将軍を送り込まれるのでは、わざわざ親王を推し戴く意味がありません。今回、実朝きゅんに鎌倉御所を京都に移す計画を聞かされた小四郎は、ここで完全に『この両名の意向を汲む方法では公正で中立な象徴としての鎌倉殿が成立し得ない』と認識したのでしょう。
まぁ、少し長い話になりましたが、本作の小四郎は『悪人だから悪行を重ねている』のではなく『一応、本人なりのヴィジョンに基づいて粛清をしているが、如何せん基準を明文化出来ないので、傍目には見境なしに殺戮を重ねる悪人に見えてしまう』ということではないでしょうか。ただ、確かにキチンとした筋道を立てたうえで小四郎を悪人に仕立てるのではなく、視聴者の度肝を抜きたいがために小四郎に悪事をやらせている場面も意外と多いので、この辺は総評でも軽く触れたいと思っています。何か感想というよりも分析に近い内容になりましたが、ここ三週間程は総評のことを考えていたので、自然とそちらのほうに思考が向いてしまったようですね……つーか、これを総評に取っておけばよかったんじゃあないのか?
次はこれ。
先日、三年ぶりに泊りがけで首都圏に出掛けて参りました。幾人かの友人知人と会ってノンアルで飲んだり、軽めに飲んだり、ブツを返したり、更なるブツを借り受けたりと久方ぶりの再会を堪能致しました。初日は全く別の会合三連荘とかトバし過ぎたと反省している。ちなみに酒が入らないソロの食事は全てラーメンで済ませたのは内緒だ。いや、行く前は評判のレストランとか旨そうな居酒屋とか検索するのですが、やはり、一人で気兼ねなく入るのにはラーメン屋が好適なのよね。一番印象に残ったのは御徒町駅近くの『焼きあご塩らー麺たかはし』。二か月前の上京で立ち寄った新宿の『麺屋海神』とは別系統の塩の逸品。次も絶対に行く。
それはさて置き、二日目のフリータイムに足を運んだ横浜ガンダム。奇しくも『いだてん』の嘉納治五郎終焉の地である『氷川丸』の隣の埠頭に立っていたのに驚きました。一粒で二度美味しい観光。これは極論だがね……次は実際に組手が出来る1/1嘉納治五郎の駆動式立像を製造したらどうだろう? まぁ、そんな戯言は兎も角、実際に目で見た歩くガンダムは圧巻の一言。いや、正確には歩いているのではなく、歩いているように見えるだけなのですが、何が凄いってガンダムそのもの以上に、その場にいた大人も子供も、日本人も外国人も、ガンダムを知っている人も知らない人も、皆、一様に起動シーンに目を輝かせていたことですね。ぶっちゃけ、ガンダムなんて色々な意味で現実には存在し得ないし、仮に存在しても現実には何の役にも立たないシロモノなのですが、私を含めて、それを見上げる人々の目は一様に驚きと憧れに満ちていたのよね。謂わば、
具現化された架空の概念への憧憬
であり、横浜ガンダムの落成式を令和の大仏開眼と評した人の慧眼に感服致しました。実際、ガンダムが右手で天を指すポーズなんて、稼働実験という当該機構の設定上、全く必要のないモーションなのですが、これはお釈迦様の天上天下唯我独尊をイメージしていると考えると納得がいきます。尤も、当日購入したパンフと帰りの通路に掲げられていた富野御大の、
「プロジェクトに携わった全ての技術者や関係者へのリスペクトは当然の大前提として、敢えて申しあげると、ボクのモビルスーツは1Gでの使用を想定していません。また、日本には建造物の法律があって、絶対に倒れてはいけないという制約上、ここまでのものしか作れませんでした。ごめんなさい。横浜ガンダムをご覧になった方、特にお子さんは動くガンダムを見て『これからも応援しよう!』ではなく、これを本当に動かすために解決しなければならない問題に思いを馳せて下さい。でも、作って貰えてよかったです!」(要約)
で全てがいい意味で台なしでした。ホンマ、そういうとこやぞ。
横浜自体、30数年ぶりの訪問でしたが、こういう情勢下で直前まで予定を決められずにいたので、ほぼほぼガンダムを見て帰るだけになってしまったのが残念。幕末所縁の名所旧跡や御手洗潔シリーズの聖地も回りたかったなぁ。
最後はこれ。
アムリッツァ会戦以降からTV版を離れて劇場版に移行したノイエ銀英伝。劇場版前提ということで一定のクオリティが保証されるのは有難いのですが、問題は地方民の視聴環境に優しくないこと。ちなみに私の現住所から最も近いノイエ銀英伝を上映してくれる劇場は100キロ以上離れた隣県に在り。このアムリッツァ会戦に匹敵する距離の暴虐をリアルで体感せよという劇場版の関係者、マジモンのパツキンさんの可能性があるように思います、思えない? 流石にEテレという贅沢はいわないので、せめて深夜のBS系でまとめて放送して欲しいンゴねぇ……。
そんな訳で今までは友人からお借りしたDVDで続きを視聴してきたノイエ銀英伝ですが、今回は上京時に運よく策謀編第二章が封切りということで、初の劇場鑑賞となりました。内容的には幼帝誘拐直後の帝国の動静~ユリアンのフェザーン行きまでの、
狙いすましたかのように戦闘シーンが一回もない
という劇場版で見る必要があるのかとの疑問が湧かないではないパートであり、同じ時間帯にやっていたSAOプログレッシブ第二章にも心が揺れましたが、結果的にノイエ版を見て大正解。ノイエ版って原作や石黒版との差別化を図るあまり、結構ピントのズレた解釈や表現に奔ってしまうことが多く(それはそれで必要なことではある。そうでなければ新編を作る意味は半減する)、のちに友人からお借りしたDVDで見た第一章のケンプが史上最大の単座式戦闘艇で特攻をかけるという解釈は流石にどうかと思ったのですが、今回は原作のストーリーを踏まえつつ、軽めに施したアレンジが適度に効いていてベネでした。
秀逸であったのは幼帝を迎える側の同盟市民の国論分裂の描写。国論の分裂というとお互いがお互いを売国奴、乃至は国粋主義者と罵り合うレベルの低い喧嘩の場面を描きがちですけれども、今回のノイエ版では各々の議論の幅・熱意・深さがキチンと書き分けられており、誰の意見が絶対的に正しいという受け取り方は出来ないようになっていました。勿論、アカラサマにダメでアホな意見もありましたが、それは保障された言論の自由の元、衆議で事を決する議会制民主主義の税金のようなものであり、そうした見解を排除する思考の行きつく果てはルドルフの台頭に繋がることをスタッフが作品の通底的価値観として認識していることには素直に頭が下がりました。本来、銀英伝における同盟の腐敗っぷりは物語的にカリカチュアライズされるものですが、リメイクに近いノイエ版のほうが民主主義の本質を穿っていたように思います……つーか、現実社会で矢鱈と分断を煽る連中のほうが同盟よりもダメダメとか、色々と終わっているな。尤も、これら全てが幼帝をコアにした亡命政権を容認させるためのフェザーンの世論操作という可能性もありますが、そうだとしたら相当レベル高いぞ、この工作。これが出来たボルテックが易々とパツキンに手玉に取られて、フェザーン回廊通過の言質を与えるとも思えないので、ここは素直に同盟の欠点と表裏一体の美点だと考えたい。
キャラクターではドミニクさん一択。いや、実をいいますと私の中でドミニクの園崎未恵さんにはフレデリカさんを演じて欲しかったのよ。この方は『クリミナルマインド』のJJや『CSINY』のリンジーなど凛としたキュートなキャラクターの吹替がダントツに上手いうえ、声質も先代フレデリカさんに近い(ドスを効かせた時は特にね)ので、ドミニクさんという発表があった時は意外さを禁じえなかったのですが、今回、ルパートを篭絡するシーンを見て、
忘れていた……この人は悪女も上手かった
と再認識した次第。それも判りやすい悪女ではなく、キッチリと猫を被って騙すのが上手いタイプの悪女。石黒版の剣呑なイメージと異なり、ノイエ版のルパートは表面的には話の通じるタイプを装うことで相手をハメるタイプですが、そのルパートをハメるにはドミニクさんも同じタイプの詐欺師でなければならないということでしょう。デグスビイをハメる算段をしているシーンでは『ルパート、そこを代われ!』と嫉妬してしまいました。
逆に欠点というか、ノイエ版にありがちなこととして気になったのは不老不死を信じる馬鹿は滅多にいないのに国家は永遠不滅と思い込んでいる阿房が多いのは不思議だよねというヤンの、治五郎おじさん並みの極論をユリアンが真面目な顔で聞いてしまっていることかなぁ。あれ、原作でも石黒版でもユリアンは『……えぇ(ドン引き)』みたいなリアクションをさせることで、ヤンのアレな人間性を強調しているのですが、シェーンコップをスカウトした時といい、今回といい、ノイエ版のヤンは政治や軍事に関する発言を無条件に肯定される傾向があるんだよなぁ。もうちょい周囲の反応から人間臭さを出してくれてもええんやで。