最近の『バケモノの子』と『未来のミライ』がアレでしたので、映画館へ見に行くか否かを結構迷った作品。そういや、上半期ベストの記事でも下半期の期待作品として名前を挙げるのを忘れていました。そして、候補に挙げた『閃ハサ』は一向に地元で上映される気配がない……それはさて置き、期待よりも不安を抱いて鑑賞に臨んだ本作。実際、意図的に観客にストレスをかけるストーリー展開と、リアル~ヴァーチャルどころかリアル~リアル&ヴァーチャル~ヴァーチャルでもリズムの悪い場面転換が続いた所為で、中盤まではどうなることかとマイナスの意味でハラハラしながらの鑑賞でしたが、序盤でのストレスに見合う終盤の圧倒的なカタルシスに救われた秀作でした。単純に映像美と劇中歌の雰囲気を楽しむために劇場に足を運ぶ価値はあるでしょう。個人的には『おおかみこども』を抜いて『時かけ』『サマウォ』に次ぐ、細田作品ベスト3にランクイン&現時点での下半期のベスト作品最有力候補。ただ、ストーリー的に突っ込むのは野暮と判っていますが、あの状況でヒロインを一人で行かせる周囲の大人たちってどうなんですかね? 雨を一人にして雪を迎えに行こうとした『おおかみこども』の主人公にも通じるものがあるように思います。まぁ、あそこで誰かがヒロインの傍にいたら父親と本心を晒しあうLINEトークの邪魔になるからね、仕方ないね。しかし、四国から深夜バスで東京へ……水曜どうでしょうかな?
内容的には『現実でのショッキングな出来事が原因でトラウマを抱えたヒロインがヴァーチャルワールドでのリハビリと成長を経てリアルワールドを変える』という点で、
ほぼほぼSAOファントムバレット編
と評して差し支えないでしょう。すず=シノン説。別に批判の意図ではなく、リアルとヴァーチャルの関係性を突き詰めて考えると自然にそうなるというだけの話です。リアルとヴァーチャルの差は認識可能な情報量の違いでしかなく、それも何れは技術力で埋め合わされる。リアルもヴァーチャルもない。今、自分がいる場所がホンモノの世界だというキリトさんの言葉通りですね。魅力的なヴァーチャルワールドを設定しておきながら、最終的にはリア充万歳という凡百の結論に落ち着いた『レディプレイヤー1』と違う結末になるのは近年の日本のサブカル文化の特色かも知れません(『レディプレイヤー1』自体は好きな作品です、念のため)。ただ、キリトさんが予測するスピードで技術が進歩するよりも先に社会性という分野では既にリアルとヴァーチャルの垣根はかぎりなくゼロに近づきつつあるのが現状です。多分に悪い意味で。すずのアバターであるベルもデビューした頃はボロクソに貶されて世界の半分を敵に回した&すず自身も忍との関係を疑われて炎上騒ぎに巻き込まれるといった具合に、現在の社会では、
ヴァーチャルワールドでの炎上死がリアルワールドでの社会的死
と殆ど同義語であることは直近の五輪を巡る騒動でも察せられますね。この辺は先述したように敢えて視聴者にストレスをかける作劇の典型例で、作中でのネットの罵詈雑言は意図的に直截で下品で頭の悪い言葉を選んで使っているように思いました。実際のネットではもっと婉曲的で冷笑的でサブカル的な台詞のほうが支持を得られるように思いますが、敢えてベタな表現を強調したのは物語の終盤ですずが犯すリスクの高さ=五十億の悪意を一身に受ける危険性を際立たせるためでしょう。『竜』の中の人ではないかと疑われたやきう選手が身の潔白を証明するために自身の過去と傷を公表せざるを得ない状況に追い込まれる&それを見た人々の掌グルングルンっぷりとか、非常に誇張された表現とはいえ、幾つも先例がある訳で、そんな連中がごまんといる場所で如何に子供の危機を救うためとはいえ、一介のJKに向かって、
久武忍「いいこと思いついた。お前、50億人の前で素顔を晒して唄ってみろ」(最重要ネタバレ反転です)
と涼しい顔で無茶ぶりする幼馴染のドSっぷりが窺えるというものです。忍君、すずにワザと炎上しそうなシチュエーションで迫るとか、終盤ですずを一人で行かせるとか、本当はすずのこと好きじゃあないんじゃあないかな。まぁ、それはそれとして、本作はネットの繋がりが最後の武器になった『サマウォ』に比べると、リアルとヴァーチャルの社会的境界線の消滅という闇の側面を重視した印象です。闇を濃く描くことで逆に光(ヴァーチャルワールドがなければ『竜』はあのままであったので)を際立たせようとする意図もあったとも思いますが。
あと、個人的に本作の柱と思える要素を3点。
まずは『竜の正体は何か』。『何か』ではなく『誰か』は登場した時点で判りましたし、正体周辺の人間関係や背中の傷の理由も凡その想像がつきました……というか、傷は物理的〇〇のほうがしっくり来たと思います。別にそれを見たいという訳ではありません&言葉の暴力が直接的な暴力よりもマシという意味でもありません、念のため。シンプルに物語の説得力の問題です。言葉の暴力を強調するのであれば、もう少し印象に残る台詞が欲しかった。ただ、美女と野獣リスペクト&敢えてコンプレックスを強調したベルのキャラクター造型からも察せられるディズニー風の設定からして、ハナから海外展開を視野に入れている印象の作品なので、そっち方面の表現は視覚的にマイルドなものを選んだのではないかと思われます。少なくとも、
カズマたんの指をチュッパチュッパ
みたいなネタは入れにくかったのかも知れません。
話を戻すと『竜の正体』は何かといえば、個人的にはあり得たかも知れないもう一人のすずではないかと思いました。すずも『竜』の中の人もリアルで同じような境遇に曝された過去があり、世間の歯車が少しでもズレていたら、すずと『竜』は逆の立場にあった可能性も否定出来ません。如何に中の人がアヘアヘ金欠ウホウホ借金おじさんで母親の死以来、家庭内で疎遠な状態が続いていたとはいえ、基本的に不器用なだけで娘のことを誇りに思う真っ当な父親なのは間違いない訳で、どう転んでも『竜』のアレよりはマシ。でも、亡き妻への心ないバッシングで精神の均衡を崩したすずパッパが娘に当たり散らすタイプの人間に変貌した可能性を完全に否定するのも困難でしょう。ホンの僅かな違いで誰もがすずの立場にも『竜』の立場にもなり得ることを表したかったのではないかと思いました。
次は『ジャスティンの中の人は誰か』。これに関してはネットで中の人が石黒賢のキャラクターという説を見かけて、結構説得力があると思いましたが、論理的な整合性を抜きに考えると具体的な中の人などいないというのが私の考えです。基本的にアバターと中の人は同じなので、敢えて別々のキャスティングをしているということは別人というのもありますが、ネットで誰かのリアルを暴いて悦に入るタイプの人間は私を含めて決して少なくない訳で、すずと『竜』が逆になり得た可能性と同様に誰もがジャスティンになり得るという意味が込められているように思います。
そして『何故、すずの母は子供を助けたのか』。これは言葉で表現するのは難しい……というか、これをロジックではなく、エモーションで伝えた本作の凄さに脱帽しております。これについては是非、作品を見て体感して頂きたい。記事で伝えられないのが悔しい。
キャラクターは圧倒的にヒロちゃん一択。全世界を前にベルの正体を晒せという忍に断固反対するシーンはベルのプロデューサーとしての矜持と、親友の秘密を独り占めにしたいというヤンデレ気質がせめぎ合っているようで存外闇が深い気がしました。『サマウォ』の佐久間と話が合いそう。逆に苦手なのはカミシン。周囲の空気が読めないキャラクターの描写が極端過ぎて引く。特に冒頭の勧誘シーンはほぼ不審者やん。中の人的に塩漬けにしておいたと『竜』の生首ドンしてきたほうがまだマシに思えました。めっちゃ爽やかに塩漬けにしておいたとか言いそう。主演声優に関しては声優と歌唱が別人というシェリル・ノーム方式もあったと思いますが、今回は主題的にも中の人との整合性を重視する必要があったので、歌唱パートのクオリティの高さを重視してアリ寄りのアリ。あと、本作はミュージカル作品か否かという問答を何処かで見かけましたが、タモさんがいうようにキャラクターが死に際にハモる類のシーンはなかったので、私的にはミュージカルではなく、キャラクターの唄を効果的につかった作品との認識です。『マクロス』とか『けいおん!』とかに近い。