『項梁……反秦の中心人物。定陶にて章邯に敗れ、死す』
他の主要登場人物と比べて、あまりにもゾンザイな扱いに思える項梁の紹介文。既に故人という事情を差し引くとしても、章邯や趙高よりも行数が少ないのは流石に可哀相です。項梁よりも范増や窮奇を紹介したほうがよかったのではないでしょうか。これでは道化だよ。尤も、范増や窮奇ではなく、敢えて項梁を紹介したのは今後の本編の布石かも知れません。張良がいう『章邯の弱点』とやらに関わってくるのかなぁ。まさか、この謎が越年するとは思わなかった。そんな今回のポイントは3つ。絞って短めでいきます。
1.認知的不協和?
楊熊「まさか……河北にて章邯が敗れ、その楚軍が南下してきたのか。愚かに見えた沛公とやらの軍の北上は……ここで挟撃するため?」
張良の偽兵を項羽本隊と誤認してしまった楊熊。更に項羽の襲来という『事実』を信じ込んでしまったため、劉邦の北上に戦略的意図があったと勝手に思い込んでしまいます。それが自分に不利なことであっても、人間は信じたいと思うことしか信じないものです。とはいえ、章邯との連絡を密にしておくか、戦場周辺の偵察を徹底しておけば、避けられた誤認でした。結局、戦場の命運を分けるのは情報ということでしょう。今回の張良の作戦は一戦場での奇策ではなく、楚軍や秦軍の配置を見据えた戦略的用兵といえるかも知れません。本来、張良という人物は区々たる用兵ではなく、大局を見据えた判断力に長けた人物なので、何気に今までの中で一番張良らしい戦いではなかったかと思います。
2.同姓同名
姫信「姫信と申します。妾腹……傍流故、韓姓を憚り、祖姓の姫を名乗っております」
黄石「私が勧めた。知り合いに韓信……もういるから」
同時代の同姓同名の人物が世界史上でも二十指に入る用兵家であったため、便宜上、書物では韓王信と記されることの多いカワイソスな人の姫信。この人も決して用兵がヘタな訳ではなく、その人生も韓信に負けず劣らず劇的なのです(この人の最後の手紙は泣ける)が、如何せん相手が悪かった。中国は儒教の国ゆえ、ヨーロッパのように同一王朝で同じ名前の皇帝が輩出されるケースはまずありませんが、武将や政治家は時に名前が被ることがあります。南宋の好戦的な文官の張浚と和平派の将軍の張浚とかね。この二人、同時代に活躍していたので、歴史家には本当にヤヤコシイそうです。そういや、本邦にもマトモなほうの家久とDQNなほうの家久とかいましたよね……。
それはさて置き、思っていたよりもイケメン風に描かれている姫信……というか、この人物が出るとは思わなかったよ。上記のように大抵の歴史作品では国士無双じゃないほうの韓信とかいわれて終わるレベルの扱いをされているので、すっげぇ意外。しかも、結構強そうです。武力85くらいはありそう。この作品で知名度あがるといいなぁ。尚、馬に枝を曳かせることで土煙をあげて、大軍を偽装する姫信の計略は、かのティムールも使ったことがあるスタンダードな作戦。偽装工作そのものよりも、今回の張良のように偽装した兵力が『本当に存在する』と相手に思わせる下準備が肝要といえるでしょう。
3.我田引水
劉邦「勝たせたのは、わしだ。わしが軍師を信じ、委せたからだ。胸張っていい。項羽の力なんざ、わしの信じた軍師の知謀には及ばん」
自分の度量自慢かと思いきや、張良に花を持たせる粋な言葉を吐く劉邦。確かに項羽の存在感が秦軍の事実誤認を誘引したとはいえ、それを的確に用いたのは張良の功績であり、その張良を信じて用いたのは劉邦の度量です。のちに劉邦は『蕭何、張良、韓信の三人を使いこなした器量が自分の勝因。項羽は范増一人、満足に使いこなせなかった』と大言壮語しますが、こればっかりは実際に勝った人間の言葉なので認めざるを得ません。まぁ、田中センセは『劉邦、蕭何、張良、韓信が寄って集って何とか倒した項羽のほうが凄いじゃん』と仰っておられましたが、そこは当事者の韓信が評したように、劉邦の『将の将たる器』たる所以でしょう。名選手は必ずしも名監督ならず。実戦者と統率者は別のモノサシで図るべきものですからねぇ。
それはさて置き、冒頭でも述べたように気になるのは張良のいう『章邯の弱点』。劉邦が楊熊の軍勢に負けるか、北に逃がすと章邯の弱点がなくなるということですが、単純に章邯と楊熊の軍勢が合流することで戦力が補強されるとか、楚軍の補給線が絶たれるという話でもなさそうです。現時点での章邯の最大の敵は項羽ではなく、後方の趙高であることを思うと、政治力学的なことかも知れませんが……うーん、サッパリ判らない。
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