先日の日記で触れたハカセさんの記事でも紹介されていたように、日本初の木彫りの仏像は流木を用いたものであった。古来、海の彼方から来るモノには異力が宿ると信じられていた。流木が用いられたのも、そうした寄り物信仰と無縁の発想ではあるまい。仏教そのものが異国の教えであることを考えれば、日ノ本に自生している喬木よりも、海を渡って辿り着いた流木が選ばれたのも道理といえる。尤も、異界からの稀人が常に幸福のみを運んでくるワケではないのは、塞の神信仰の存在からも明らかだ。
本邦への仏教公伝は欽明天皇の御世(在位五三九~五七一年)である。百済から経文と共に持ち込まれた仏像を見た当時の人々は、
「西蕃の献れる仏の相貌、端厳(きらぎら)し」
と精緻にして装飾に溢れた造形に驚きを露わにしたが、この時に持ち込まれたものは御仏の教えばかりではなかった。仏教公伝と前後して、国中で疫病が蔓延する。崇仏を推進する蘇我氏と対立していた物部氏は、これを『異国の神を仰いだために、我が国の神々が祟りを成した』と断定。件の仏像を難波の堀江に打ち捨てた。幸い、仏像は信州の住人・本田善光に救われて、彼の郷里に持ち帰られた。善光寺の起源であるが、この時に猖獗した病は天然痘とされている。恐らくは百済経由で国内に持ち込まれたのであろう。上記の塞の神信仰も、異界の者が里を訪れると得体のしれない=免疫のない病が猖獗するという経験から発生したと思われる。尤も、それから数十年を閲した敏達天皇の御世にも、同様の廃仏毀釈と天然痘の大流行が発生したものの、その時は『流行病は御仏の祟り』と囁かれたというから、既に仏教が人々の心に根づいていたのであろう。私個人は不信心者とはいえ、千年を経た倫理には人の心の真理があるとも思っている。天然痘をもってしても、或いは疫病という災厄があったからこそ、人々の心に救いをもたらす御仏の教えが日本に定着したのかも知れない。
それでも、天然痘が日本史において、数多の人々の生命を奪ったのも事実だ。その被害者が激減するのは嘉永二年(一八四九年)にオランダから種痘のノウハウがもたらされて以降になる。日本でも中国から輸入した技術を独自に改良した種痘が実施されていたが、人痘を牛痘に変えた西洋風の牛痘種痘法のほうが安全性で遥かに勝っていた。しかし、牛痘には『角が生えて牛になる』とか『人語を話せなくなる』といった無知に基く迷信がつきまとったため、定着には相応の時間がかかり、その間にも多くの犠牲者を出した。
松平容保の正室・敏姫もその一人であろう。敏姫は天然痘を患った影響で蒲柳の質となり、僅か十九歳で儚くなっている。助かる可能性はあった。当時、一代で家老にのしあがった一人の重臣が種痘に注目。是非、敏姫にもと進言したものの、保守派の御歴々や藩医から総スカンを喰らった。これにキレた家老は当時十二歳の操という孫娘に種痘を施すと、天然痘患者のいる家へ片っ端から遊びにいかせた。早い話が孫娘で臨床試験をしたのである。勿論、孫娘は罹患せず、家老は再度、敏姫の種痘を勧めたが、結局は却下された。敏姫が長命していても、松平容保の幕府に対する律儀な政治姿勢は変わらなかったであろうが、苦難多き夫の心の拠り所の一つになり得たのではないか。ちなみに上記の家老の息子も、息子の長子も病で早世しているが、彼の家には他にも男子がおり、操の兄で与七郎という孫が家督を継いだ。家老の姓名は山川兵衛重英。与七郎は明治を経て、浩と改名する。
幕末に猖獗した流行病となるとコレラが有名であろう。コレラの描写は『JIN-仁-』に詳しいが、安政五年(一八五八年)、長崎から日本に上陸したコレラは瞬く間に各地に伝染。江戸では百万を号した人口のうち、三万人がコレラの犠牲者となった。今日の東京に置き換えると三十万人以上が病に斃れた計算になる。棺桶の需要が供給を遥かに凌駕したため、犠牲者の多くは酒樽に詰められたが、今度は火葬場の手配が追いつかず、江戸は死者を押し込めた酒樽で溢れ返った。斯くも各地で猛威を奮ったコレラであるが、最初の感染地の長崎では罹患率は1%強に抑えられている。江戸との人口密度の違いはあるにせよ、長崎に居留していたオランダ海軍医師のポンペによる予防措置や初期対策が奏功したためといってよい。
ただし、ポンペは人々から感謝の念のみを贈られたワケではなかった。コレラの猖獗は当時の尊王攘夷運動に結びついた。曰く、開国をした所為で流行病が発生した、幕府の政策は誤りだ、異人は日本から出ていけという理屈である。外国人が日本を征服するために井戸に毒を投げ込んだのがコレラの原因だという流言まで飛び交った。欧州で疫病が蔓延した際には、猶太人が同様のことをしたとの風説が流布したが、このテの排外主義者の発想は人種を問わず、中世の頃から現代に至るまで全く進歩していない。先に述べた牛痘の普及が遅れたのも、一つには外国の知識を蔑視する攘夷思想が原因であったとされる。
ポンペとしてはいたたまれない気持ちであったろう。この時のコレラを持ち込んだのは米国軍艦ミシシッピ号であり、ポンペの故国であるオランダとは何の関わりもない。コレラの猖獗も初めてのことではなく、実は鎖国の最中でも朝鮮から対馬を経たコレラが機内を中心に猛威を奮った事例がある。何より、ポンペは早くからコレラの危機を訴えており、まかり間違っても、彼が日本に持ち込んだ事実も持ち込む意思もなかったのは明白であった。異人という単語で一括りにされたうえに冤罪までかけられたポンペの胸中は察するに余りある。それでも、ポンペはコレラの最前線に留まり、自らが罹患するリスクを犯しても病と相対し続けた。この点、古美門が如何に詭弁を弄そうとも医は仁術と評するしかない。
尤も、時代が明治に移ると共に人々の病への姿勢も変わってくる。天然痘やコレラと並ぶ死病として世界中で怖れられたペストに対して、明治の日本人は、言葉は悪いが不気味なほどの冷静さで対処した。ペストはネズミ(正確にはネズミについたダニ)を媒介して蔓延するというのが認知されていたとはいえ、明治二十九年(一八九六年)まで、ペストが日本に上陸することができなかったという事実は、水際の検疫体制が万全であった証拠といえる。明治三十二年(一八九九年)に国内で初の発病者が確認されても、人々はそれぞれの範囲でやれることを確実に積み重ねることで、感染の拡大を防ごうと努力した。ネズミの排泄物が原因との説が有力視された際には、それらを踏まないように裸足での往来が禁じられた。媒介者とされるネズミの捕縛に自治体が懸賞金を出したりもした。個人レベルではネズミ対策に猫を飼うことが奨励された。今日、東京に猫が多いのはペスト騒動の名残りとされる。これらは今日の視点では必ずしもペスト対策の決定打とはいえないにせよ、少しでも可能性のある事象から丹念に潰していくという姿勢は、疫病に対する警戒心を維持するのに役にたったといえる。
勿論、日常レベルの予防対策ばかりではなく、時には感染者を出した地域周辺を丸ごと買いあげたうえ、ネズミを逃がさないようにトタン板で囲った挙句、一斉に火を放つという某世紀末のモヒカンのような荒業も、当時の人々はやってのけた。この際、炎が周辺に延焼しかけたため、海上から軍艦が放水するという一幕もあったが、何としてもペストを周辺に広めないという、実行者の断固たる意志は讃えるべきであろう。実際、ペストは『黒死病』と恐れられた欧州ほどの規模に拡大することはなかった。日本にはペストを媒介するダニが生息していなかったという生物学的な幸運もあったとはいえ、明治の日本のペスト対策は理性と平常心に富んだものであったと評してよい。
季節柄、そして、何よりも時節柄、疫病の猖獗が取り沙汰されている。
疫病の厄介さは必ずしも悪意に基いて被害が広がるワケではないことだ。天然痘のように御仏の教えと共に本邦に上陸したケースが典型である。時に善意が疫病の流行を後押しをすることさえある。それが何ともやりきれない。そして、国を閉ざそうと閉ざすまいとに関わらず、疫病は僅かの隙間から侵入してくる。現に鎖国の最中でもコレラは日本に上陸した。勿論、水際での検疫体制に万全を期し、感染ルートを減らすのは当然の措置としても、今日のようにグローバルな活動が世界経済を支えている状況にあって、人の動きやモノの流れを完全に抑止することは不可能に近い。さしたる資源もない国が孤立を気取ろうとも、世界経済の連鎖から絶ち斬られた時点で、その国の経済は死ぬ。経済が死ねば、現代医療を支える技術基盤も崩れる。疫病の流入は何れは起り得る事態と覚悟を決めるほかない。
不測の事態が発生した際の処方箋は、山川兵衛のように科学を信頼すること、そして、明治の人々のように冷静さを保つことである。罷り間違っても、幕末のように疫病と政治を混同して他者を貶めたり、異なる思想を迫害する口実に用いてはならない。古美門の言い分にも耳を貸すとすると医は科学だ。科学である以上、公式通りにやれば必ず状況は改善する。しかし、政治は科学と異なり、正しいことを積み重ねても正しい結果になるとはかぎらない。罹患者と思しき人物の思想信条や背後関係を掘り返す類の、科学の舞台に政治を混同する発想は、ペスト収束後の魔女狩り、或いは幕末の尊王攘夷運動のような集団ヒステリーという国を冒す病を招く。純然たる医療情報を偏狭な価値観で図っていては、助かる病も快癒不能なウィルスへと変容しかねない。
先週、今年のインフルエンザの予防接種を受けながら、意味もなく、上記のようなことを漠然と考えた次第である。向寒の折、皆さまもくれぐれも御自愛下さい。
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取り敢えずの処方箋として
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