鬼庭左月(74)「よいか……儂のように若死に致すなよ……なんてな」ガクッ
左月の生涯最期の一発ギャグかと思いきや、実はガチネタであったります。鬼庭家は長命の家系で九十代まで生きた人がザラだとか。その件は秀吉と綱元の会談で詳細が語られる筈ですが、こんなマニアックなネタを容赦なくブッ込んでくるのが『独眼竜政宗』。政宗と左月が別離の際に刀の鍔を鳴らしあう場面=金丁がありましたけれども、あれも時代劇を見慣れていないと何をしているのか判らないですよね。視聴者に『あれ? これはどういうこと?』と思わせる。瞬間、視聴者の心は膝立ちになる。その分、画面≒物語への距離感が縮まる。視聴者の心を膝立ちにさせてこそ、物語は盛りあがる。どの作品とはいいませんが皆が知っているような話を誰かがやったような流れで描いても物語は盛りあがらないんですよ。見ている側が身体も心もダラーッと横になったままでピクリとも刺激を感じない作品に何の価値があるのかといいたい。
今年の大河批判(あ、言っちゃった)はさて置き、今回も見所満載の本編でしたが、物語の柱は一つしかありません。実は今回の内容には時系列や合戦の経緯などで史実と食い違っている点が結構多いんですよ。それは本編を通じて製作者が描きたい事案を浮き彫りにするためなんです。手前味噌で恐縮ですが、私も歴史記事を書く時に常用する手法です。そんなワケで今回のポイントは一つ。
1.Death and Rebirth
日本語でいうとシト新生……じゃない、死と新生ですね。
『死』のほうが言わずもがな、輝宗という喬木を喪った伊達家の混乱を描くことで彼の存在感が如何に大きかったかを浮き彫りにしています。特に先回の事件はアバンタイトルの解説ですませて、本編が始まったら既にお東の方は輝宗の訃報を聞いたあとという思いきった構成にはビビった。リアルと作劇を(OPテーマを挟んだとはいえ)直に繋ぐとか、素人が迂闊にマネしたら確実に総スカンでしょう。でも、それがお東の方の『青天の霹靂』感を視聴者にもリアル体感させているといえると思います。しかし、まぁ、お東の方も凄い描かれ方をされていますよ。事件の真相を問い質す場面がありましたが、あれ、よく聞くと輝宗を死なせたことを責めているんじゃないんですね。
「お前が直接に手ェ下すこたぁねぇだろ!」
といっているんですね。子の政宗が父の輝宗を(間接的にせよ)殺したことを責めているんですよ。突っ込む所はそこなんかい! 以前、政宗の猛々しさがうんたらかんたらと嘆いていましたけれども、どう考えても母親似です。本当にありがとうございました。この辺も『血』の絆を大切にするお東の方の思考を強調していますね。『血の呪縛』を絶って天下に名乗りを挙げようとする政宗のラスボスはお東の方という構図が更に顕在化した場面でしょう。
話を戻すと、そのお東の方は輝宗に殉死した家臣の子を竺丸の側近に取り立てています。でも、こういう人事って家督を継いだ政宗の裁可が要る事案ですよね。また、古株の一門衆が小十郎を吊るした挙句、実元が『これからは儂が政宗の後見人!(キリッ)』とか宣言しちゃいましたけれども、輝宗が若隠居した理由の一つが、そういう連中が出しゃばらないようにとの判断でした。更に政宗の命令ガン無視で国元では輝宗に殉死する連中が続出します。これ、作中でも描かれていたように政宗にとっては、
という事案の連続なんですね。母親や親戚衆が心からの善意で伊達家の将来を思うのはありがたいとはいえ、その言動は明らかに政宗の職権を侵害している。殉死の件でも『先代を慕って』といえば聞こえはいいですが、こうも殉死者が出ると自分の鼎の軽重が問われるし、有為の人材に死なれると伊達家のマンパワーが低下します。今回はお東の方や一門衆、殉死者といった輝宗を慕う人々がよってたかって政宗に迷惑をかけるという構図なんですよ。
しかも、全く『悪意なし』にね。
その分、余計にタチが悪いですね。皆、伊達家のため、輝宗のためを思ってやっているけれども、当主の政宗の意志は眼中にない。善意って怖いよね。それゆえというか何というか、今回は少なからぬ人死が出る話にも拘わらず、私は結構ニヤニヤしながら見ていたんですよ。全体の構成がシニカルなコメディっぽく思えなくもない。皆が真面目にやればやるほど、主人公が苦虫を噛み潰す結果になったワケですしね。
では『新生』のほうは何か。これは虎哉和尚の言葉通り、目上がいなくなった分、若い力で存分にやる好機と思うことです。そして、真に輝宗の遺志を継ごうとするのであれば、政宗のためになることをやれということ。
まず、虎哉和尚は米沢に戻らず、放浪の旅に出ると宣言した場面。これは自分が米沢を去ることで未だに輝宗を慕う者への指針を示したのだと思います。生きる者も死ぬ者も政宗の邪魔になるようなマネはするな&去るならば政宗へのケジメをつけて去れという無言のメッセージ。同時に自らの存在を消すことで政宗に伸び伸びとやらせようという意図もあるでしょう。そう考えないと、このシーンは納得できないんですよ。史実の虎哉和尚は政宗の元から去っていないですしね。敢えて、そういう創作を入れたということは何らかの狙いがあると考えたほうがいい。或いは大滝さんのスケジュールとか、リアル都合もあったのかもですが、喜多の言動も考えあわせると納得できるのではないかと。
あれ程に輝宗を慕っていた設定の喜多が殉死しなかったのは何故か? 逆にいうと喜多が輝宗を慕っているという設定にした理由は何か? それはやはり、真に輝宗の遺志を継ぐということは生きて政宗のためになることをするということなんだ、という作中メッセージを描きたいがためだと思います。そう考えないと喜多が輝宗を慕っていた設定の必要性がなくなっちゃいますしね。
それでも、輝宗と黄泉路を共にしたいのであれば、ちゃんと政宗の役にたってからにしなさいというメッセージの体現者として選ばれたのが遠藤基信と鬼庭左月の伊達シルバーコンビの二人。基信に関しては今回は格別な活躍があったワケではありませんが、輝宗の墓前で呟いたように小十郎を見出したのは彼なのですから、基信はキチンと政宗のためになることをしていたといえます。左月については言わずもがな。人取橋における獅子奮迅の活躍が全てを物語っていました。
否、実は史実のほうが更に政宗のためになっていたというべきでしょうか。左月討死⇒政宗出陣というのは時系列が逆で、政宗の本陣がヤバイ⇒軍配を預かった左月が殿(しんがり)を務めて討死というのが定説です。追撃側も政宗の首級を狙うリスクを冒すよりも左月の首級で充分な恩賞になるので、そこで追撃の足が鈍ったのは想像に難くありません。じゃあ、何でそういう展開を避けたのかといえば、それだと、
伊達家のヤングパワーの活躍が描けない
からです。人取橋の戦いは戦術上は政宗の惨敗にも拘わらず、作中では辛勝とも取れる描かれ方をされていたのは、輝宗、基信、左月といった先人の自己犠牲のうえに若い力が頭角を現すさま、即ち、伊達家の新生を描かんがための構成じゃないかと思います。作中で成実の活躍がクローズアップされていたのも、そういう意図かと。あ、でも、確かに成実の活躍はガチなんですよねぇ。この戦いで成実が生き残ったのはどう考えても理屈にあわない。
それにしても、先回のキンキンに続き、基信&左月の退場も記憶していたよりも早かったです。それこそ、基信に関しては二本松城の一件が落着してからだと思っていました。自分の記憶力に自信をなくしてしまいそうですが、その分、新鮮に物語を楽むことができると己を騙すことにしましょう。
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