今更ですが、こんなに面白かったっけ?
まぁ、何で面白いのかと聞かれても、話の基本と筋がしっかりしているという小並感レベルの言葉しか出てこない自分が悔しい(普段の記事も小並感満載という突っ込みはヌキでお願いシャス)。開き直りを承知でいえば、台詞回し、所作、監修がしっかりしているから、物語の基本がホームドラマでも充分に歴史劇として観賞し得るということでしょうか。本作の記事から『簡易』の二文字が消えるのも近いかも知れません。今回のポイントは4つ。
1.満海上人
梵天丸が満海上人の生まれ変わりという噂に沸く米沢城。本作の祈祷師のキャラを考えると『何とか一命はとりとめたものの、世継ぎの片目を失った所為で輝宗の心象悪くしたから、ここらでゴマでも擦っておくか』という動機から出た阿諛の言葉に思えます。或いはそうした己の深層心理が自覚なしに満海上人の像を浮かびあがらせたのか。何れにせよ、些か胡散臭い雰囲気が拭えない雰囲気でしたが、それでも、梵天丸の周囲の人々の喜びようは素直に描いています。皆、武将は容貌じゃないと口にしてはいるものの、当人のことを思うと心は重い。でも、高名な満海上人の生まれ変わりゆえに片目を失ったのだという話は隻眼をアドバンテージに変えるロジックになる。皆、祈祷師の言葉を信じたのではなく、信じようとしたのではないかと思います。多少の胡散臭さはそうしたことを描くためのフリかと。
何が凄いって、今回の話の中で満海上人がどのような人物なのか&どのくらい偉い人なのかという具体的な内容が一切なかったことですね。それでも、登場人物の台詞、態度、反応で凄い人なんだというのが何となく判る。これは自分の台本と俳優の演技、現場の演出を信じていなけりゃ、怖くてできないですよ。まぁ、宗教家の偉さというのは俗世のロジックでは語れないものですので、敢えて描かなかったのかもですが。
2.虎哉宗乙
上記のように宗教家の偉さは言葉にしにくい。不立文字。この言葉通り……というのも矛盾していますか。言葉で表せないのが御仏の教えの極意ですからね。でも、実際に劇中で魅力ある人物を登場させるには、何らかの方策が必要になる。
本作では一つには仏門の特異性、神聖性をアピールしていました。一国の主たる輝宗に『是非、息子の傅役を』と虎哉さんへ自ら三顧の礼を取らせる。同時に輝宗に禄や寺といった俗世の栄誉を示させる一方で、僧侶側は『解脱した身には不要のもの』と特殊な価値観で応じさせる。彼らが世俗の利益とは無縁の存在であると強調するワケですね。もう一つは言わずもがなのキャスティング。大滝秀治さんとか……こんなん反則だろ。茶目っ気というか、俗っぽさというか、人間臭さというか、そういうものを孕みつつも、実はしっかりと現世と距離を置いた存在。こんな難しいキャラは完全に俳優の存在感に頼るしか方法がありません。キャラそのものを上書きする雰囲気を持った方にしかできない。キャスティングの妙が冴えまくった本作ですが、大滝さんの虎哉宗乙は確実にベスト5入り。人によってはナンバーワンではないでしょうか。私? 私は鮭様ですかね。史実よりも遥かにドスが効いた戦国武将のキャスティングというのは寡聞にして知りません。
あと、虎哉さんが梵天丸に不動明王の解説をしていましたが、これが契機で梵天丸の『ふさぎ』に改善の余地が見えた一方、成長した政宗の『俺が不動明王だ! 俺に逆らう奴は悪だ!』というDQNっぷりの遠因になりました。禍福は糾える縄の如し。
3.コロンブスの卵
何かとウンチクやビジネス系歴史解説が目立った本作。今回のアバンタイトルでも、山形城と米沢城の距離を早馬で2時間という実感のある表現で解説してくれました。こういうのがアバンタイトルの役割の一つでしょう。
さて、輝宗、実元、成実、左月、綱元、喜多、小十郎のややこし過ぎる姻戚関係。これは一回聞いただけではなかなか理解できない。そうかといって、説明台詞で何度も繰り返すのも興醒めです。アバンタイトルは上記のネタで使ってしまった。では、どうすればいいか。答えは本作で描かれたように、
コメディにすればいい
んですね。コメディにすれば何度も同じことを繰り返しても、それはルーティンギャグとして成立します。これは凄い逆転の発想ですよ。普通、思いつかないし、思いついても、シリアスからコメディに至るまで、あらゆるジャンルの脚本の知識と応用力がないと描けない。この場面の中心にいかりやさんを据えるというのも巧い。曜日が土曜から日曜に変わっただけで全員集合のノリですからね。脚本上の必要性とお遊びを同時にこなしていました。
4.価値観とは
上記のように姻戚関係のややこしさは丁寧に描くくせに、それが政略結婚の副産物ということはナレーションでサラッと流す。これも凄いよなぁ。だって、当時は当たり前のことなんですから、いちいち、登場人物に政略結婚とかクドクドいわさなくていいんですよ。当たり前のことをいちいち口にしない。これは脚本だけでなく、日常生活でも同じですよね。
例えば、今から数千年後に全人類社会が穏健的専制国家に統一されたとしましょう。その世界で私たちの時代を舞台にした作品が描かれたとして、その中で我々がいちいち、自由ガーとか民主主義ガーとか台詞にしていたら不自然ですよね。いや、自由も民主主義も大切ですよ。それは大前提です。でも、それは自然な台詞じゃない。芝居のための台詞です。当たり前のことをいちいち口にしない。大事なことなので二回書きました。
※ここから先は今後の展開に言及するので、本作未見の方は御遠慮頂いたほうがよいかと思われます、念のため。
5.ラスボス
今回の内容と直接には関係ないかもですが、取り敢えず。先回の感想でも述べたように、最上義光の扱いが記憶していたよりも些かいい人であったのが引っかかっていました。あれ、おかしーなー、輝宗が越えるべき親、義光が倒すべき敵という感じじゃなかったかなーと思っていたもので。そのことをずーっと考えていたのですが、実は本作の越えるべき親&倒すべき敵は他にいたじゃないかと漸く気づいた。しかも、第1回から登場していた。何故、今まで気づかなかったのかと思いました。それは、
お東の方
です。確かに輝宗も義光も、そして、若い頃の政宗も一廉の人物として描かれてはいるものの、全員、本作では(或いは史実でも)お東の方に頭があがらないんですね。彼女が一触即発の伊達軍と最上軍の間に輿と腰を据えた事例からも判るように、序盤から前半にかけての伊達家の戦争は何度かお東の方の仲裁で和睦が成立しています。作中のお東の方としては当然の行動です。彼女は伊達家と最上家の和平のために輿入りしてきたのですから、両家に事ある時には全力で和睦を目指して動く。実に筋が通っています。
でも、彼女の存在が示しているように、奥羽の諸大名はほうぼうと政略結婚を重ねた結果、身動き取れなくなっちゃったのも確かなんですね。AがBを攻めようとしても、Bには娘が嫁いでいる。じゃあ、Cを攻めようとすると、アイツの跡継ぎは甥っ子であったりする。結局、戦そのものも小競り合い主体のなぁなぁで終わることが多い。しかし、乱世で覇者を目指すにはラディカルでドラスティックに事態を割り切らなければいけない。八百人斬りの事例でも判るように、政宗にはその意思と器があった。
虎哉宗乙「野心を遂げるためには手段を選ばん」
と今回語られていたように、です。身内であろうと非戦闘員であろうと、目的のためには容赦しない気概が時に乱世を動かす。それを志向する政宗の一番の壁と敵は血の繋がりに基いた各々の家の紐帯を大切にするお東の方なんです。彼女がいるかぎり、政宗は本格的に覇道に乗り出すことができない。政宗が全国区デビューするに際して、弟の小次郎を殺し、お東の方を追放するイベントが課せられたのも、それが通説というだけでなく、脚本上、構成上の必然性というのもあったのでしょう。こう考えると鮭様が魅力に溢れたヒールであっても、決してラスボスではないことに納得がいきます。
その一方でお東の方は政宗にとって、倒すべき壁であると同時に慕っても慕いきれない母親なんですね。これも、今回描かれていたように、梵天丸の右目の瘡蓋(眼球?)を食べてしまうほどにお東の方は息子に愛情を注いでいる。倒すべき壁が愛情を求めてやまない存在という矛盾。これは、
政宗=刃牙
お東の方=勇次郎
輝宗=朱沢江珠
と考えてもいいかも知れません。輝宗は厳しそうな感じですが、父性の負の側面である暴力性に乏しく、政宗にダダ甘ですからね。『本作は厨二病息子とツンデレママの半世紀に及ぶ愛憎劇』と以前評したように、政宗とお東の方の関係性は一応理解していたものの、もう一歩踏み込みが足りなかったのが今回、自覚できました。本作のラスボスはお東の方。異論は認めない。
思いついたことを次々と書いていたら、とても簡易感想という分量ではなくなってしまいました。明日の『軍師官兵衛』の記事は簡易とついていない簡易感想になるかもです。禅問答のようだ。
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